無事、試験場にたどりついた。
 小高い丘に登ると、都会では見られなかった豊かな色彩が視界に飛び込んできた。一本の道によって左右に分かれた向日葵の黄色が、空の青が、町を囲むように連なる山々の緑がふるさとを実感させる。初夏の強い陽射しに目を細めながら、森田賢一はいつものように心を曇らせた。
「昔のことは、忘れるしかない」
 つぶやきは誰にも拾ってもらえなかった。けれど、ときどき思い出したように吐き捨てるのだ。賢一はひとりごとの多い青年だった。
「試験に合格して、とっとと特別高等人になるしかない」
 陽炎の立ちのぼる道の先に視線を注ぐ。最終試験が実施されるくたびれた田舎町。水田のきらめきのなかで、木造の校舎がたわんで見えた。学園には義務を負う人々が多く通っていると聞く。ただ、賢一は、彼らのことを罪人だとは思わない。犯罪者の烙印を押すのは、常に、強大な力を持つ社会そのものだった。
 賢一は、左手に提げているジェラルミンケースの中から一冊の本を取り出した。それは、日本という国が舞台のSF小説だった。手垢にまみれたページをめくりながら歩みを進める。
 賢一の国において、罪の解釈は広い。
 日本では、いくら働かずに自堕落な毎日を過ごそうとも、刑務所に送られるようなことはない。親の言いつけを守らなかったからといって、国がでしゃばって子供をしつけるような法もない。どんな極悪人にも人を愛する権利はある。
 それが、賢一にとっては幸福に思える。
 賢一の生きる社会では、怠惰は立派な犯罪であり、家長に従わない子供は矯正され、ときには自由な恋愛すら法によって禁止される。
 そして、それぞれの罪に応じた罰として、特別な義務を背負って生きるのだ。刑務所に入れられることはないが、日常生活に自由はない。囚人服を着る代わりに、服の目立つ場所に、罪人であることを示すバッジを貼り付けなければならない。異性との接触が禁止されたり、一日が十二時間に設定されたり、親権者に絶対服従しなければならなかったり……。
「クソな世の中だぜ」
 人が聞けば選挙権を失うような発言を足先に放り投げ、それを踏みしめていると、いつの間にか試験前の緊張もやわらいでいた。
 特別高等人の国家試験。それは年間に十人合格するかどうかの狭き門だ。賢一はそれまで自分が通過したテストの数々を思い浮かべるとき、その過酷さに、いつも青ざめる。

 特別高等人の役目は、罪人、つまり、義務を負った人々を更正指導することにある。世の中には、多種多様な義務があり、特別高等人はあらゆる状況に対処しなければならない。したがって、他人の行動を予測する心理学、暴れる罪人を取り押さえる体術など、人を管理するための能力全般が求められたのだ。
 最上級の国家公務員として、特別高等人には強大な権限が与えられている。必要とあれば罪人の基本的人権を剥奪し、プライバシーを侵害することはおろか、生殺与奪すら自由なのだ。それゆえに、彼らは人が人を裁く意義と危うさを理解している。人格面においても、常に公共の福祉を最優先に考えて行動するよう叩き込まれる。
 賢一が目指す特別高等人とは、いわば、刑務所という場を必要としなくても罪人を監督できる、極めて有能な看守だった。
 賢一は日本をうらやみながら本を閉じた。山風が吹き渡る。向日葵の少し日に焼けた花びらが、まるで波頭のように滑っていく。日向夏咲を発見できたのは、少女のリボンが、黄色い海のなかで、ひときわ鮮やかに波打っていたからだ。
 ――ケンちゃんがね、いいんだよ。
 淡い記憶がよみがえる。まぶしいくらいの笑顔と、手のひらのぬくもり。生意気な妖精のような声は、けれど、森田賢一の胸奥にひっかき傷をつけていた。
 直後、賢一は少女から逸らそうとしていた目を大きく見開いた。まぶたの裏がひきつってひりひりと痛む。肩と、胸と、背中の三箇所。そのバッジは、夏咲にはとうてい似合わない。薄汚い結婚詐欺師が負うようなみじめな罰則。
 ため息を放るようにあごをしゃくった。陽射しが賢一の顔に向かって一直線に降り注ぐ。田舎の広い空は七年前とまったく変わらない。賢一はうしろめたい過去を振り払うように、はっきりと幼馴染を見据えた。
 そうして、一歩、踏み出した。
 車輪の下に押し潰されるように、息苦しい社会。
 正義の象徴である、向日葵に向けて。
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